安藤の休憩所

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【放送15周年記念】人間×人外モノの名作。アニメ『妖逆門』に見るバディ観

「人間×人外バディもの」に萌えるのは男女共通だと思う。昔話や神話の典型に異類婚姻譚があるように、「人間×人外バディもの」は創作界の一大ジャンルとして古今東西に存在している。

 

さて、ここに妖逆門(2006~2007年 全51話)というホビーアニメがある。同作は主人公の熱血少年・多聞三志郎と、それに憑く妖怪・不壊(フエ)が異世界を冒険する物語、つまり「人間×人外バディもの」の秀作のひとつである。

 

では、なぜ秀作と言われるか。まず初めに、本作のDVD第1巻のジャケットイラストをご覧いただきたい。

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妖逆門』DVD第1巻 

(C)2006 田村光久小学館妖逆門学会・テレビ東京

そう、この作品は「人間×人外バディもの」かつ「オッサン×少年バディもの」なのだ。しかもオッサンがデザインからしてめちゃくちゃ胡散臭い。誰が言ったか「人気投票2位の悪役みたいなキャラデザ」。あまりに的確で笑ってしまう。

 

彼らが登場する『妖逆門』は、原案を漫画家・藤田和日郎が務める作品だ。藤田といえば、名作人間×人外バディ漫画うしおととらの作者。そう聞くと、『妖逆門』の三志郎&不壊の関係を潮&とらの関係と似たものと想像する方もいるだろう。

 

両作品の主人公コンビは、どちらも「人間と人外」かつ「少年とオッサン」である。ついでに、人間側はどちらも正義感の強い熱血少年で、人外側はどちらも口が悪い面倒くさがり。妖逆門』が『うしとら』の兄弟作ということもあり(2作には同じ妖怪が登場する)、表面上のキャラ設定はきわめて近い。

 

しかし作品の本質を見ていくと、両者は対照的なコンビだったりする。

 

1.コンビの関係

ご存知の通り、潮&とらコンビの関係は「ケンカするほど仲が良い」。妖怪を滅する槍を操る潮と、それに取り憑きいつか喰ってやると息巻くとらは、終始ケンカばっかりしてるが、周囲には「仲がいいねえ」と言われている。

 

ふたりの関係は基本的に対等だ。潮ととらは、ある面では反発し合い、ある面では認め合って、約2000歳の歳の差を感じさせないほど子どもっぽく争いながら旅を進める。とらは潮と関わる内に少しずつ“心”を取り戻し、何だかんだ言いながら潮と背中を預け合う仲になる。

 

対して三志郎&不壊は、主従関係である。不壊はこんなアンニュイな見た目で、年下の三志郎を「兄ちゃん」と呼びからかうようなキャラだが、主体的に動くことは(舞台設定的にも)まず無い。

 

そもそも不壊は「どんな時でも主人である人間の子どもの味方」という種族の妖怪だ。ゆえに彼は提案すれども指図はせず、嫌味は言っても利己的な意見は言わず、三志郎の決断により己の命が脅かされるとわかっていても、悩むことなく従ってしまうのである。

 

大人が少年に従い、少年の決断に命まで懸けてしまう。これは実にグロテスクな構造だ。しかし『妖逆門』はそのいびつさを不壊の飄々とした態度と口の悪さ、そしてホビーアニメらしいワチャワチャ感で隠している。

 

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妖逆門』第1話より

(C)2006 田村光久小学館妖逆門学会・テレビ東京

この点がまず創作手法として巧い。ふたり関係のいびつさは、子どもが見ても気付かない。しかし不壊の仕草や表情、細やかな言動には感情が散りばめられており、大人の目には彼の表面上の胡散臭さとは違った面が見えてくる。

 

なお、この作品は全体的に「何を語るか」ではなく「何を語らないか」で人格が作られ、それが伏線となっていく。不壊や三志郎に限らず、他の登場人物でも「そういえばこの子、こういうこと言いそうなのに言わないんだな」というのが細かくあり、きちんと意味があるので、ぜひ注目してほしい。

 

にしても、三志郎が成長すればするほど不壊から表情が減って行っている気がするんだよなあ……。

 

2.オッサン人外キャラの性格

とらと不壊の性格は、似ているようで対照的だ。とらは人を喰らう暴れん坊で恐ろしい妖怪ながら、現代文明には興味津々。喜怒哀楽豊かで、ひねくれ者だが表裏は無く、一本気の通った純粋さも持ち合わせている。

 

対して不壊は、台詞を抜き出せばとら並に乱雑で胡散臭いやつながら、不正を嫌い、冷静沈着で芯の通った性格をしている。檄は飛ばせど文句は言わず、皮肉を言っても人格を否定せず、叱るときは目を見て叱る。また、自分の感情や痛みを優先することは一切無い

 

そんな不壊だが、たった一度だけ感情を露わにする場面がある。それは第12話、わけあって引き離されていた三志郎と再会し、その喜びから思わず「三志郎」と普段は呼ばない少年の名を呼ぼうとしてしまうシーンである。

 

そのときの不壊の表情は絶妙だ。純粋な喜びではなく、様々な感情が一気に駆け抜けて行った複雑な表情。しかし我に返り、いつもの表情を作った彼は、いつものように軽い調子で「兄ちゃん」と三志郎を呼ぶ。三志郎は不壊の感情の変化に気付かず、ただただ再会を喜ぶ。

 

このシーンはモノローグも無く、尺的にも僅か数秒しか無い。だがこの数秒は、12話かけて作られた「冷たくアンニュイで怪しいヤツ」という不壊のイメージを払拭するのに十分だった。

 

創作者は、ついつい様々なシーンを描きたがる。バディものの場合、バディのふたりの仲が縮まるシーンを入れたい。「普段は冷たいけど実は主人公を想っている」というキャラならば、そいつの優しい面が現れるイベントを作りたい。

 

『うしとら』でも、潮がとらを心配したり、とらが潮を認めたりというシーンは頻繁に描かれた。ふたりが互いを認めるエピソードは最序盤(アニメ版では第5話)にもある。これは「ケンカするほど仲がいい」というキャラ表現に必要な描写だ。

 

対して『妖逆門』には、三志郎と不壊の仲が縮まる“明確なイベント”が無い。やりとりの雰囲気だけでいえば、ふたりの会話は出会いから最後までほぼ不変。にもかかわらず、視聴者は何故かふたりの間に強い絆を感じてしまうのである。

 

これはひとえに「演出の妙」だ。不壊の態度は初回からひたすら怪しい。キャラデザ的にも胡散臭いし、あんまりホビアニっぽくないし。しかし12話になると、不壊は三志郎と引き離されたことに対して“焦り”の表情を見せる。この時点で、視聴者は「おや?こいつイメージと違うぞ?」と思う。

 

その後には、再会した三志郎に「さんっ……兄ちゃん」と呼びかけ、崩してしまった表情を取り繕う様子を見が描かれる。キャラクターのイメージを変えるのには、こんなワンシーンだけでも十分なのだ。

 

そして続く13話で、三志郎は初めて本作のラスボス“灼銅の鬼仮面”と対峙し剣を交える。しかし結果は惨敗。それどころか鬼仮面の残忍な戦い方に戸惑った三志郎は、恐怖から戦意すら失ってしまう。

 

不壊は三志郎を護ろうとするが、鬼仮面の容赦ない攻撃に耐えることができず、炎の中に消えてしまう。苦しげな表情で三志郎の瞳を見詰めたまま、自分の苦労に対する文句も愚痴も言わずに。これまでいつも守ってくれた不壊が辛そうに消えて行くシーンは、かなりショッキングな場面である。

 

こうなると、視聴者の感情はぐちゃぐちゃだ。「おまえ意外と可愛いとこあるじゃん」とか思った直後に、最大級の献身を見せられるのだから。そんなのもう「可愛いとこあるじゃん」では済まない。

 

かくして13話以降は、画面上で描かれるものは同じまま、視聴者の不壊を見る目だけが変化する。単にキザったらしく見えていた仕草に優しさを感じたり、声の調子に想いを感じたり。そして自然と視聴者は、画面上の虚像(キャラクター)であるはずの不壊の一挙一動に“意志”を感じるようになるのである。

 

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妖逆門』第21話より

(C)2006 田村光久小学館妖逆門学会・テレビ東京

3.熱血主人公のニュアンスの違い

それぞれの作品の主人公である潮と三志郎は、どちらも「正義感に燃える熱血少年」だ。しかし両者は、物語における立場や性質が大きく異なっている。

 

『うしとら』の主人公・潮は、文句のつけようがない曇りなきド王道主人公である。彼は特別な力を得て人助けのために戦い、熱く真っ直ぐな言葉と行動でたくさんの人の光となる。潮の役割は作品における「太陽」。潮の行動によって、物語は動いていく。

 

そんな潮と同じように、『妖逆門』の主人公・三志郎も正義感の強い少年だ。しかし三志郎は自分の手で戦うことができない。彼は妖怪を使役して戦わせる“撃符使い”だが、本人のスペックはごく普通の男の子。戦闘時には妖怪たちを応援することしかできないし、ダメージも不壊が被るので、潮のように傷つくことはない。

 

妖逆門』における三志郎の役割は、『うしとら』における潮ほど強くない。三志郎と物語の間にはせいぜい「ラスボスに気に入られた」程度の縁しか無く、“彼だけの特別な力”も特には無い。

 

ついでに三志郎は、潮と比べて結構“悪い子”だ。『妖逆門』のストーリーは、離島で民宿を営む夫婦のもとに生まれた三志郎が、夏休みに家出して、小学生ひとりで冒険の旅に出ようと船に乗り込む所から始まる。

 

まあ「家出して冒険の旅へ!」っていうのは、子どもなら一度は夢見るシチュだと思う。しかし実行しちゃうのはさすがにマズい。しかもその後、三志郎は船上で嵐に巻き込まれ、海に放り出されて命の危機に直面する。

 

ご覧のように三志郎は、「正義感が強い」という設定の割に初っ端から悪いことしちゃってるのである。その後も彼はルールを破ったり、「やめろ」と注意されたものに手を出したりしてペナルティを喰らい、不壊に呆れられている。

 

こういう描写を見るに、三志郎はおそらく「クラスいちのお調子者タイプ」なんだと思う。いわゆる集合写真の最前列で寝転んでるようなヤツだ。

 

『うしとら』の潮は、劇中描写的にも「クラスいちの人気者タイプ」である。優れた心を持つ少年は、圧倒的な“正しさ”で周囲を変える。つまり『うしとら』という作品は、「潮が奇跡を起こす」物語なのである。

 

対して妖逆門』は、51話かけて「お調子者のガキだった三志郎が主人公となるまで」を描く作品である。三志郎は物語に翻弄されながら、他の登場人物たちの人生に触れることで、最終話までかけて「自分」を見つけて行く。

 

だがそれだけだ。三志郎がひとまわり大きく成長した時点で物語は終わる。『妖逆門』に奇跡はひとつも起こらないし、三志郎に奇跡は起こせない。ただただ必然が積み重なっていくだけである。

 

4.『妖逆門』というストーリー

三志郎は決して“太陽”のような主人公ではない。第1話の三志郎は、紛れもなく「お調子者のガキ」だった。無茶苦茶な方法で家出はするし、引き留めようとしてくれた幼馴染ごと危険に晒すし、命を助けてくれた不壊に礼のひとつも言わないし。

 

物語序盤では、そんな三志郎の無鉄砲な様が描かれる。思いつくままに行動しては失敗し、手札の強さと不壊のフォロー(そして主人公補正)でなんとか前進するものの、ルール違反をやらかして大失敗する様は、言ってしまえば「正義感だけは一丁前なクソガキ」である。

 

しかし中盤に差し掛かると、視聴者は誰に対しても真っ直ぐに接する三志郎の生来の優しさに気付く。そして三志郎自身も、負けても諦めない友人たちの姿や、自分の失敗を庇ってダメージを負う不壊の姿、自分の意志とは関係なく戦う妖怪たちの姿を見て、少しずつ「自分が何をしているのか」を自覚し始める。

 

それに伴い、三志郎と不壊の関係は変化していく。最初は不壊にキイキイ言っていた三志郎は、やがて不壊と意見を交わし合い、皮肉に対してカッコつけた台詞を返し、「行くぞ」と引っ張るようにまでなる。表情の描かれ方も変わり、第1話と50話を比較すると、三志郎は明らかに大人びている。

 

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妖逆門』第1話より

(C)2006 田村光久小学館妖逆門学会・テレビ東京

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妖逆門』第50話より

(C)2006 田村光久小学館妖逆門学会・テレビ東京

三志郎の成長は、決して明確に描かれない。しかし少しずつ「以前のこの子ならこういう事は言わなかったな」「こういう表情はこれまで見た事無かったな」と思うシーンが増えて行く。最終決戦での三志郎の全ての言動は、それまでの成長から導き出されて当然のもの。決してわざとらしい言葉ではない。

 

そんな三志郎の背中を、不壊は優しい表情で眺めている。「大人に認められたい、褒められたい」という想いは、何より子どもを強くする。だから不壊は三志郎を褒めないし、優しい顔も見せない。

 

しかし不壊は、内心で三志郎の成長を認めている。アニメでは、そんな彼の想いが台詞そのものではなく、表情や仕草、声の演技として細かく描かれている。

 

こういった言外の演出で性格を描くのには、キャスティングを小林由美子×郷田ほづみという1世代離れた実力派声優の組み合わせにしたことも活きてくる。ハイコンテクストな作品では、演技のニュアンスも重要な考察要素になるからだ。郷田ほづみ、「胡散臭く知的でどこか破滅的な男」の演技上手すぎる。

 

5.バディものとしての『妖逆門

三志郎と不壊の関係をどう見るか、どう名付けるかは、ほとんど視聴者の判断に委ねられている。放送当時にはブロマンス・BL的と取る人もいれば、師弟関係、疑似親子関係、ただの利害一致の関係と思う人もいた。逆に、バディものと見ない人もいた。

 

妖逆門』は全51話ある割に、主人公コンビの性格や過去を掘り下げるための回が無い。そのためキャラの性格や過去には想像の余地が広く設けられており、鑑賞者によってキャラの印象が大きく変わる。

 

たとえば筆者は、不壊の性格を「思慮深く誠実」と読み取った。しかし「胡散臭く意地悪」と解釈する人もいる。三志郎の性格にしても、「優しい」と言う人と「暴力的」と言う人がいる。そして作品は、視聴者のどんな解釈も否定しないまま進行していく。

 

この「余白」こそ本作の「沼」だ。兄弟作うしおととら』は、主人公コンビの性格や人格、関係性、過去を丁寧に描く作品だった。そこに鑑賞者の立ち入る隙はほとんど無い。

 

対する妖逆門』は、全てが鑑賞者の想像に委ねられている。「いや、ちゃんとこういうふうに描かれてるじゃないか」と誰もが言うけれど、それらは全て個々の鑑賞者が導き出した自己解釈である。

 

本作の紹介としてよく言われる「胡麻臭いオッサンが、最初は利用するつもりだった熱血少年に絆されてしまう話」だって、語る人の一面的な解釈に過ぎない。私は本作を「ワケアリなオッサンが死に場所を見つける話」だと思っている。

 

感想や同人なども見て行くと、マジで人によってキャラ解釈が違う。特に不壊などは「ホントにみんな同じアニメ見てんのか?」ってレベルで解釈に違いが出ており、口調から性格まで十人十色。これほど解釈がバラつくキャラは他に見たことが無い。

 

ちなみに『妖逆門』、主人公以外のキャラにも不壊みたいなアダルティ相棒妖怪が憑いており、それぞれのペアの関係性もまた絶妙だ。「なぜこの子にはこのパートナーなのか」を考察するのも面白い。

 

私は「その子の思う理想の大人がパートナー妖怪として憑いている」と解釈しているのだが、そうなると三志郎の理想の大人像が大変アダルティなことになる。まあ三志郎、最終回での雰囲気を見るに、若干アンニュイに育ちそうではあるんだよな……。

 

おわりに

長々と語ったが、ぶっちゃけ『妖逆門』は難点も多い作品だ。「後半すごいよ」と知らなければ、前半のB級アニメ感と作画難で切ってしまう人もいると思う。

 

ストーリーやキャラクターも「もうちょっとこの辺りを描いてほしかったなあ」と言われるポイントは多々ある。特に、最人気キャラである不壊の過去や素性などが一切明かされないのは賛否分かれる所だろう。

 

ただ、私はキャラの過去や素性は明かさなくても良いと考えている。過去回想は「あって当然」のように扱われているが、創作論的にはキャラ付けや掘り下げ・設定開示の手法のひとつ。つまり、人格描写がしっかりしていて設定開示に過不足が無いキャラには、過去回想が無くても良いはずなのだ。

 

近年は1クール12話完結の短い作品が多くなり、登場から数話、早くて数分で退場(死亡)するキャラが増えたので、キャラの掘り下げには重い過去回想が多用されている(結果、過去回想=直後に死亡という強めの方程式ができた)。

 

しかし本当の“人格”は、設定ではなく言動や仕草に表れる。『妖逆門』の視聴者が「不壊の過去も描いてほしかった」と言うのは、劇中描写に「このキャラには何らかの“過去”がある、それを知りたい」と思わせるだけの説得力と魅力があるからだ。

 

アニメ『妖逆門』はなかなか評論が難しく、長所と同じくらい短所が多い作品である。前半は作画も悪いし、正直微妙な回もある。

 

それでも本作は「名作」と称されている。その理由は何故か。放送15周年のこの節目に、大人になった私たちは“今”の価値観で本作をどう観るか。

 

子どもの頃は「意地悪で怪しいヤツ」でしか無かった不壊の表情に優しさと仄暗さを感じたとき、私は自分が大人になったことを知った。子ども向けアニメを大人になってから見返すのって、きっとそういうことなんだと思う。

 

2021年4月3日(土) 『妖逆門』初回放送15周年に寄せて

安藤さやか

 

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